日光での芭蕉の俳句について、管理人の江戸家 眠猫

江戸家 眠猫

管理人 江戸家眠猫
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趣味 ヒカリもん集め
日光で芭蕉は"あらたふと青葉若葉の日の光" (なんと尊いことだろう日光山は。新緑に埋もれる木の下闇まで燦 々と日の光が射している) さらに、後半の山形、月山では"雲の峰いくつ崩れて月の山" (昼間の陽射しの中で、猛々しく起立していた雲の峰はいつしか崩れ、今は、 薄明かりに照らされた月の山が横たえているばかりだ)を詠みました。
奥の細道でこの二句は、日光が太平洋側に月山が日本海側に、日の光と月の山をかけて意図的に対比させています。
その意味は太陽は昇り、沈む、月は満ち、欠ける、季節は巡るが自然を動かすエネルギーは何にも変わらない。
この世は変わっているように見えるが実は何も変わっていない。
芭蕉がこの旅で感じた境地、「不易流行 ふえきりゅうこう」である。・・と
俳人 長谷川櫂氏は述べています。
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他方、日光でのこの句は徳川政権への過度の賞賛がしばしば非難された句として取り上げられています。
日の光=日光=徳川=尊い
すなわち徳川幕府の威光を地名にからめて賛美していると一般的に解釈されているのです。
もし芭蕉が生きていたならば何と答えるだろう?
アハハ、別に東照宮さまだから「あらたふと(尊い)」と言うたわけではないよ。 権威など私には興味がないから、 自然の美しさにくらべたら、月とすっぽんさ、 ・・・と、笑うんじゃ、ないかな。。。
芭蕉
季節は違えど10月雨上がりの日光東照宮は杉木立の中、挿し込んできた太陽の光に、 「きっと芭蕉もこの光を・・・・」と胸熱く感じました。
自然の命の輝きを、 「おお、なんと尊いものであろうか、新緑の光を通して見る陽の光は」 と素直に、あるがままの情景として捉えられないだろうか。
権勢に身をゆだねることのなかった俳聖。
政の言は似合わないと思うのだが。。。
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